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2022/12/30 09:10

伝説のシューズデザイナーの誕生

田中清司は、韓国や中国から輸入した靴を日本で販売していた、田中亀商店の長男として生まれました。
靴の輸入販売で成功した両親から、徹底したゴルフのスパルタ教育を受けて育ち、幼少期は日本一になるほどゴルフに打ち込んでいました。
しかし、日本一でもまだ足りないと両親から言われ、大学はアメリカの大学にスポーツ留学生として通いました。
クラスメイトのほとんどがバスケットボールの特待生で、Patrick Ewing(パトリック・ユーイング)などがクラスメイトでした。

この大学のゴルフ留学生は、アメリカ全土をツアーで回る授業が多かったそうで、留学生がホームステイする先は、アーノルドパーマーやクリントン家など、裕福な家が多く、週末に行われるパーティーも大物ばかりだったと言っていました。
この時、ゴルフツアー中にアメリカ中の古着屋を巡り、レアなシューズを入手していたそうです。

田中清司が大学を卒業し、クラスメイトの多くがバスケットボールのスター選手になり様々なグッズ販売をしていたことを知り、田中清司の父親が彼らの所属事務所を通して、シューズのカテゴリーで日本総代理店の権利を獲得するために交渉をし、Patrick Ewing(パトリック・ユーイング)の日本総代理店となりました。

ユーイングについて、デザインは田中清司が、その他のPRや販売については両親が担当し、「天才たけしの元気が出るテレビ」のスポンサー枠を手に入れた父親が、広告代理店と一緒にPatrick Ewing(パトリック・ユーイング)のシューズをPRする企画を考え、瞬く間に日本中にPatrick Ewing(パトリック・ユーイング)のバスケットシューズが広がりました。

バスケットボールが好きな幅広い世代は、ユーイングのバスケットシューズを持っていることがステイタスになり、ブランディングは大成功でした。

このPatrick Ewing(パトリック・ユーイング)の大成功の後、アメリカの某ブランドのデザインもしましたが、これはあまりうまくいかなかったようです。
しかし、ミリタリーデザインの必要があり、その勉強のため各国のミリタリーデザインの研究を始めたそうです。


ファッション業界を震撼させた「LUDWIG REITER」


ヨーロッパのミリタリーデザインを勉強していた頃、ウィーン王室御用達だった「LUDWIG REITER(ルーディックライター)」のTill REITER(ティルライター)氏と出会い、彼らとの仕事が始まりました。
これが、世界のファッション業界を震撼させる大きなウェーブを生むことになります。

それまで、クラシックな革靴や乗馬用の足元周りを展開していた「LUDWIG REITER(ルーディックライター)」でしたが、Till REITER(ティルライター)氏がカジュアル要素を取り入れる必要性を感じており、田中清司に新しいデザイン要素を求めました。
田中清司は得意のスニーカーと、ミリタリー要素を取り入れたデザインを産み、量産しました。
東ヨーロッパの靴産業はとても歴史があり、彼らの望むスニーカーやミリタリーの要素を取り入れた靴造りは、得意でした。

ヨーロッパでは歴史もあり、誰もが知っている名のあるブランド。
イメージを完璧に形にし、デザイナーが産み出したいデザインを作ることのできる製造工場。
そして、エキセントリックなアジア人のデザイナー、田中清司。

これら三つ巴が揃い、フランス、イタリアを軸にヨーロッパ中の展示会に出展しました。
パリの展示会では、デビュー当時のHELMUT LANG(ヘルムート・ラング)やMartin Margiela(マルタン・マルジェラ)が田中清司のシューズを気に入りました。

パリコレクションに、スニーカーが登場した瞬間

まずは、HELMUT LANG(ヘルムート・ラング)が「LUDWIG REITER(ルーディックライター)」のレザースニーカーを自分のコレクションに使用しました。

これが暦史上はじめて、パリコレのランウェイにスニーカーが登場した瞬間だと言われています。

この出来事がファッション業界を震撼させました。
田中清司のデザインする「LUDWIG REITER(ルーディックライター)」が、世界中からオファーが止まらず、伝説になったセレクトショップである、パリの「colette(コレット)」、イタリアの「10 Corso Como(ディエチ・コルソ・コモ)」にスニーカーが並び、ファッション誌でも「VOGUE PARIS(ヴォーグ パリ)」に掲載されるなど、ファッション業界のトップに駆け上がっていきました。



東欧の製造工場とのクリエイション

また、一方で製造を担っていた東欧工場との長く深い関係がここから始まっていきます。

まだ小さな工場だったルーマニアの工場には、厳しい寒さに耐えられるだけの暖房器具を日本から送り、凍えた体を温めて作業のスピードや効率を向上させたり、今でこそ巨大な企業となったスロバキアの「NOVESTA」工場では、小さなロットでも受けてくれていたため、たくさんのモデルを作りだしました。
これらのクリエーションから、日本のシューズブランドで20年以上続く稀有なブランドである、「maccheronian」「CEBO」を生み出しました。



German Trainerはこの時期にスタートしました

また、誰もが知ることになったドイツ軍のトレーニングシューズ「German Trainer」の製造工場が存在することを聞きつけ、その機材一式を買い取り、オリジナル製造が出来るようにしました。

「LUDWIG REITER(ルーディックライター)」、maccheronian、CEBOと並び立つ、TSTというブランドもこのころに立ち上げました。
当時のビジネスパートナーで有名スタイリストS.Tさんの名前を使い、Tanaka Seishi+S、Tを略した頭文字でした。
その後、彼らのパートナーシップが終わったため、TSTの意味を聞かれた時の説明が、Tanaka Seishi+Seishi Tanakaの略だと替わりました。
このTSTというブランドは、ヨーロッパ各国で大ヒットの商品でした。
TSTがヨーロッパ各国でヒットをしたことで、「LUDWIG REITER(ルーディックライター)」とTSTがヨーロッパでの彼の代名詞となり、
日本では「LUDWIG REITER(ルーディックライター)」、maccheronianが彼の代名詞となっていきました。

(注:田中清司の義兄である私(リベルテーク社 代表 藤川)が、義兄と当事者から直接聞いた話をまとめています。)